この優しい時代では、自分が始めなければ、何も始まらない。
令和は、個人の意思を尊重する、自由で優しい時代だ。
優しい飲み会はその代表例だ。
一杯目の強制ビールは減り、アルコールの強要は少なくなった(完全に無くなったとはいえないが、アルハラへの風当たりは厳しくなった)。
そして、飲み会に行きたくなければ、行かない自由がある。飲み会への参加が義務ではなく権利になったからだ。
人付き合いが苦手な人にとっては願ったり叶ったりだろう。
僕は人付き合いが苦手なわけではないので、飲み会に行くのは苦ではない。しかし、ビールは苦手なので、一杯目にハイボールを頼めることをありがたく思っている。
優しくなったのは飲み会だけではない。食事、趣味、ファッション……。様々な領域で個々人の自由意思が尊重されている。
基本的に僕はこの傾向を歓迎している。優しい世界では自分がやりたくないことはやらなくていい。不快なことはなるべく避けたいのが人間だ。
しかし、優しい世界には一つ問題点があるとも思う。
それは、何かを始めるきっかけが減ることだ。
強制されないということは、自分が始めるまで始まらないことを意味する。
つまり、何か新しいことを始めるには、自分から動き出さなくてはならない。そして、自分から動くというのはかなりエネルギーがいることだ。
初めて何かをするというのは、必ずしも楽しいことばかりではなく、不快感や居心地の悪さを覚えることだってある。
不快感や居心地の悪さを乗り越えるエネルギーは、誰しもが備えているわけではない。
自分のやりたいことがはっきりしておらず、しかも奥手な人は、自身をすり減らすような思いをするかもしれない。
もちろん、誰かに誘われて何かを始めるということはあり得る。
しかし、誰も強制しない。
例えば、知り合いが僕を遊びに誘い、僕の反応が微妙だった場合は、知り合いは「僕が行きたくないのかも」と思い、僕に配慮して誘うのをやめる。
本当は、僕自身がやりたいか、やりたくないか、分からないだけかもしれないのに。
優しい時代では、自由が手に入るが、その自由をどうするかは個人に委ねられている。
優しい時代では、自分が始めなければ、何も始まらない。
優しい時代は逆説的に、僕たちに厳しい試練を与えている。